同窓会の事業 

 

二中慰霊祭

 廣島二中は旧制の中学校から戦後の学制改革で広島芸陽観音高等学校と校名変更し、1949年(昭和24年)現在の広島観音高等学校となりました。 この長い歴史の中には原爆の犠牲になった廣島二中の生徒・教職員の悲しい同窓生の歴史が含まれています。 毎年8月6日に広島平和公園の二中慰霊碑(写真下)前で,追悼式を行い,10月には校内にある慰霊碑(写真右)で慰霊祭を行っています。

 

  

廣島二中慰霊碑
 

広島二中原爆慰霊碑は,広島国際会議場西側の本川河畔にあります。学徒動員により,この川岸の疎開家屋の除去作業を行っているとき被爆,多数の犠牲者を出しました。大自然石の碑の正面には「なぐさめの言葉知らねばただ泣かむ 汝がおもかげといさをしのびて」の弔歌がきざまれ,その裏には「鳴呼 昭和20年8月6日 学徒動員作業中 戦災並に原爆により 教官7名生徒343名 平和の礎となる 昭和28年8月6日 広島県立第二中学校遺族一同建之」とあります。

 

慰霊碑建立の経緯
 原爆が投下された時、生徒達は、勤労学徒として動員に、かり出されておりました。
 五年生は呉市の軍需工場へ、 四年生は呉市の軍需工場と、三菱造船観音工場へ、 三年生は三菱造船観音工場と宮内工場、また、舟入町にありました協和精機工場へと、分散し勤労に従事しておりました。 二年生は全員が、現在の新幹線北口にありました、東(ひがし)練兵場で食料増産のため開墾作業に汗を流しておりました。 一年生はここ中島本町で、建物疎開作業に従事しておりました。
 五十四年前の八月六日、八時十五分に、米軍機B29から投下された、原子爆弾が炸裂しました。一瞬にして、広島市内の建物は倒壊し、あたり一面、火の海と化し、広島の街はほぼ壊滅状態になりました。 広島市内に動員されていました、広島二中の生徒全員が被爆し、特に爆心地に近い所におりました一年生は、六クラスの殆どの生徒が、爆死するという大惨事になりました。

 原爆死された方々のお名前は、この慰霊碑の後(うしろ)に刻み込まれております。亡くなられた方は、
       教職員(八名)、一年生(三百二十一名)、二年生(九名)
       三年生(二名)、四年生(九名)、五年生(三名)
    計三百五十二名でございます。(平成11年11月再調査)
 慰霊碑には名前が刻まれておりませんが、被爆が原因で、戦後亡くなられた方は、さらに数十名に及ぶものと思われます。

  現在の慰霊碑の位置は、一年生のほとんどが被爆死した場所にあたります。 原爆投下の翌日の八月七日、朝早くわが子を探しに、市内に入られた家族の方が、この地で二中の生徒がたくさん倒れて、亡くなっているのを見つけました。  その方は、やっと探しあてたわが子を、ダビにふし、後(あと)から探しに来られる方々の目印にと、石垣に焼け残りの灰で「広島二中生徒被爆地」と大書され たそうです。
この場所には、苦しみ、悶(もだ)えた生徒が、心の中で父や母を呼(よ)んだ最後の声が、染(し)み込んでいるようでした。そこで、その霊を慰めるために、翌年の一月に高さ二メートルの木柱(きばしら)の慰霊碑を建てたそうです。 第一七回追弔法会(ついちょうほうえ)を機会に現在の慰霊碑が建立されました。そして、第二十回追弔法会から芸陽観音同窓会が中心になり、お世話をすることになりました。

 

2004/05/10現在までに判明している原爆死没者名簿

広島ニ中原爆死没者名簿

 

広島ニ中原爆死没者に関する資料

●広島ニ中原爆死没者に関する記事。お亡くなりになられた方一人一人の名前、写真、略歴、状況など詳しく紹介されています。【中国新聞社ホームページ】

●慰霊碑の所在場所【平和記念公園ホームページ】

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